いそべ圭太  自由民主党 横浜市会議員(保土ケ谷区選出) 公式ホームページ

2011.03.31

被災地を生で見て、体験したこと、感じたこと

「東日本大震災」において、被害にあわれた皆様に心よりお見舞いを申し上げます。

また、被災地において被災者救助をはじめとする対策に、日夜を問わず尽力していらっしゃる皆様に敬意と感謝の意を表します。

私も震災直後より「被災地の子供を救う会」に賛同し、街頭募金や現場第一主義のもと、3月25日に被災地視察を行いました。

被災地の子供を救う会の募金活動は、各地で募金活動が盛んに行われており、予定通りの期日で活動を終了させていただきました。

ご協力いただきました皆様、誠にありがとうございました。

(みんなの党募金は、引き続き行っております。)

今回は、被災地の子供を救う会とは別に、民間ベースの活動として物資の提供とお見舞いをかね、有志で福島県南相馬市に視察に行った報告と、被災地を生で見て感じたことをお伝えいたします。

今回の視察の目的は、ほんのわずかですが避難所への物資の供給と津波被害の視察が目的です。

むやみやたらに被災地に入ることや大量のガソリンを消費して被災地に向かうことに最初はとても悩みました。

しかしながら、震災から2週間が経ち道路なども復旧しつつあること、ガソリンの供給も落ち着いてきたこと、そして何よりも自分自身の手で物資を届けたい、自分自身の目で被災地を見たい(「百聞は一見にしかず」)。こう決断し、有志で被災地に行くことにしました。

南相馬市は、地震・津波による被害だけではなく、原発の事故でも苦しむ地域です。

高速道路も復旧しつつあるとはいえ、通行可能なのは途中まででした。

途中のサービスエリアなどにあるガソリンスタンドは、緊急車両優先や給油制限があるものの、ほとんど並ばずに給油をすることが可能でした。

サービスエリアでの食事や物品は、かなりの制約がありましたが、不自由はしない程度の品揃えでした。

高速道路上で「災害派遣」と書かれた多くの自衛隊車両を見かけました。

一般道に降りて最初に目に入ったのは、ガソリンスタンドに並ぶ長蛇の列。一時期の横浜の列の比較になりません。開いているのはごく一部で閉まっているガソリンスタンドがほとんどでした。

一般道をだいぶ進むと検問がありました。検問といってもパトカー1台と看板のみ。

この先は原子力発電所から30km圏内とのこと。20km圏内までは通行可能で、また検問があるのでそれより先は入れないとのことでした。

道を尋ねても山口県警の方のため、迂回路がわからないとのことでした。

その後、迂回路を見つけることができ、しばらく走っていました。

犬や牛が道を歩いている姿も見かけました。道にうずくまる犬もいました。恐らく飼い主が避難または行方不明になったのでしょう。人間すら食べるものが満足ではない状態。仮に飼い主がいたとしても、ペットや家畜に食べさせるものはないのが現状でしょう。

さらに山道を進むと防護服に身を包んだ自衛隊員の方を発見。一瞬車内がはりつめた空気になりました。

いつの間にか20km圏内に入ってしまったようでした。

最短で出られるルートを聞き、圏内より脱出し、南相馬市内に入りました。

南相馬市は、原発から30km圏内にある街であり、風評被害なども重なって物流が途絶えぎみになっているそうです。

市内は、避難指示や屋内退避が発令されており、人の姿がほとんどなく、商店などは閉まっていました。閑散としたゴーストタウンのような風景でした。

海側に近づくにつれ信号も機能していなく、何となく不穏な空気になりました。その瞬間、あまりにも凄まじい光景が目に映りました。

こんなに酷いのか…。

目を疑う光景が広がります。

海でもないのに漁船などが畑の真ん中に。

家も車も潰れて泥だらけ。

とにかくすべてが見るも無惨な光景でした。

報道などで知っているとはいえ、やはり自分自身の目で見ると言葉を失います。

進むにつれて、どんどん状況が悪くなる。海までまだまだ距離がありますが、とてつもない状況です。

(これでもほかにもっと酷い場所があるそうです。)

南相馬市の海沿いは、海岸線から2kmほどのところまでしか立ち入ることが出来ませんでした。

立ち入ることの出来た範囲の道は、すでに自衛隊の方々などが瓦礫を撤去されたようです。

しかしながら、至るところで道が陥没していたりとまともに走れる道ではありません。

さらに進むにつれて、自衛隊と警察の方々による行方不明の方々の捜索や道路上の瓦礫の撤去などが行われていました。一部では、民間企業による新しい電柱の設置工事なども行われており、行方不明者の捜索と平行して復興のための作業がすでに始まっていることがわかりました。

海岸方面の一通りの視察を終え、南相馬市内の避難所へ向かいました。

到着した避難所には子供からお年寄りまで63名の方がおられました。

役所の方々が震災後からずっと泊まり込みで頑張っておられました。

すでに大半の方が別の場所に移動したとのことでした。

いずれこの場所も30km圏内なので閉鎖をするとのことでしたが、カップラーメンやお菓子、ティッシュペーパーやトイレットペーパー、歯ブラシやウェットティッシュ、生理用品、カイロなどを置いてきました。

何でもかんでも足りていないとのことでしたが、特に燃料が足りないとのお話しを職員の方からお聞きしました。

仮設トイレや炊き出し用品などもあり、さすがに2週間経っており、必要なものは揃いつつあるという感じでした。

お風呂に入りたいという声もお聞きしました。

お話しはいくらでもお聞きしたいのですが、あまり長い話しをすると迷惑なため10分ほどで避難所を離れました。

南相馬市の方々は、これからさらに別の場所に避難を強いられるようです。

物資などは、自治体から3か所の避難所に食料・それ以外に分けて、専門的に分け、そこから割り振られるという無駄で意味不明な配分に驚きました。

街中を車で移動して思ったのは、自衛隊の車が多数走っていますが、避難所などでは見かけませんでした。避難所には職員の方が2名しかおらず、人手不足感が否めませんでした。

自衛隊員を自治体などに割り振り、連携して活動ができないものかと疑問に思いました。中央集権では、やはり難しいのかと考えてしまいます。地方分権を進めれば、もっともっと物資の供給や復興が早まる気がしてなりません。

今後の復興は、元あった場所に街を作るのではなく、安全な場所に新しい街をつくることが重要なのではないでしょうか。海岸線方面から見渡しても高台がない。予想を上回る災害に堤防は役立ちませんでした。

物資を避難所に運んで感じたことは、今回は乗用車でしたがトラック1台借りて、満載の物資をひとつひとつの避難所に直接届けたほうが早いし、有効的に使えるのではないかと感じました。

2週間経過しての所見ですが、もっともっと自衛隊などが機動的に動けないのかが疑問に残ります。(もちろん現場の隊員の皆さんのご尽力には頭が下がります。)

この点については、もう少し情報を収集し、活動内容などを調べたいと思います。

地震・津波・原発

ひとつでも大きな災害なのに、ふたつ、みっつと重なった今回の大災害。

地震と津波は天災ですが、原発は天災だけとは言い切れません。

首都圏の我々は、地方の方々が危険な目にあっていること、不自由な生活を強いられていることを忘れてはなりません。

原発の事故及び電力不足は、日本社会に大きな混乱と不安を与えているだけでなく国際的な重大関心事ともなっています。

今後、我々の住んでる横浜・神奈川でもいつ首都直下型地震や東海地震などの災害がやってくるかわかりません。

被災地から遠く離れた横浜でも、震災当日は大パニックに陥りました。

災害自体を回避する手立てはありません。

いつ災害が起きても万全の体制が整えられるように対策を講じなければなりません。

災害時に行政による細部にわたる対策・支援には限界があることは明らかで、我々一般の地域住民がどう動くか、動けるか。迅速かつ適切に進められることが大切です。またひとりひとりの準備や心構え、日々の訓練や意識も非常に重要になってきます。

食料や物資を買いだめすることではなく、実際の災害に備えた日々の生活が一番重要なのです。

町内会の防災担当の役員をした時期に横浜市の補助の下、防災倉庫を設置し救助工具や飲料水などの備蓄を行いました。万一の災害時には、市民レベルでの初期活動が生死をわけると言っても過言ではないでしょう。地域の力を集結し、ひとりでも多くの市民を守るには、どのようにすればよいのかを探求しその方策を推進するべくリーダーとなる決意です。

私が、かねてより広報している「地域力の強化」こそ、今後起こりうる地元横浜での災害対策の要となるのです。

まずは地域から、そして自治体、国へと。

最後に、被災者の方々から、

「遠い神奈川から来てくれてありがとう。」

民間人がわざわざ物資を届けに来たこと、励ましに来たことに涙を流して喜んでいただきました。
こちらも涙を流して励ましてきました。

「これくらいしかできないけど、頑張ってください。」

先の見えない不安と不自由な生活を余儀なくされている、特にお年寄りや障がい者、子供たちへの一刻も早い「安全」「安心」「信頼」を与える責務をあらためて実感しつつ、人と人のつながりが一番大切だと改めて感じた視察になりました。

いそべ圭太、29歳。知識と経験は他者に劣るかも知れません。が、若さとやる気は誰にも負けません!私の座右の銘のひとつである「安寧秩序」のもと、官民一体でより良い町づくりを築きあげたいと考えます。オール日本・オール横浜・オール保土ヶ谷の一員として・・・