生まれ育った ふるさと 保土ケ谷 のために いそべ圭太 横浜市会議員(保土ケ谷区選出) 公式ホームページ

原点~初心忘れるべからず~

生まれも育ちも横浜の私は、現在30歳。2011年4月、29歳と8ケ月で横浜市政に送り出していただきました。高校では、生徒会長を務め、大学では少しだけ政治の現場に携わり、22歳からの2年間は、地元町内会の役員をも務めました。これら地元地域での活動が、政治の原点になっていることは、言うまでもありません。が、政治家になる決意は7年前の活動が、大きな礎となっています。

平成16年4月に私は、町内会の役員に就任しました。当時22歳の若輩者が、役員になることになった理由は、その1年以上前に遡ります。私の自宅は、横浜新道から30メートル程のところにあります。その横浜新道下は公園になっており、日中は子供たちの明るく楽しそうな声が、とびかっています。しかし、深夜になると、それは一変します、改造したバイクに乗った若者たちが集まり、多い時にはその数30人。当時、公園には柵などがなく周囲の道路からバイクも入り放題。支柱や遊具にスプレーで落書きをしたり、バクチク・ロケット花火と共に奇声をあげるといった、いわゆる無法地帯。町内会に対策を申し入れても具体的な対応はなし。市会議員への相談も何の興味や反応を示さず、周辺住民は我慢をし見過ごすしか方法はありませんでした。そんな中、町内会三役のひとりが「いそべ君、この問題解決に向け、真っ向から取り組まないか?」と推されました。

大役に不安もありましたが、自分のため、周辺住民のためと英断し、平成16年4月、若干22歳で町内会・防犯防災担当の役員となりました。問題は困難を極める想像以上の大きさでしたが、最終的に横浜市に要望を出すまでに至りました。まさに「継続は力なり」。再々の問題提起により、ひとり、またひとりとこの問題に強く関心を持ってもらい、横浜市職員・警察・旧道路公団・横浜国立大学・地域の小学校等まで協力の輪が広がり、問題解決に向けての大きな力となりました。その後の公園は、道路からバイクが入れない構造となり、支柱には絵を描き落書きをされない環境となり、無法地帯だった公園は再整備され、ついには地域の名所になるまで生まれ変わったのでした。

このような問題は、どこの自治会町内会でも抱えています。前述は、たまたま公園が私の家の近くにあったため、自ら対応に乗り出しましたが、実害のない場合は敬遠してもおかしくないと思います。この様に誰もがやりたがらない、敬遠しがちな問題を放置せず、大きくなる前に官民協同で解決に導きたい。自分の政治と現場第一主義を貫く姿勢への原点は、まさにここにあります。