いそべ圭太  自由民主党 横浜市会議員(保土ケ谷区選出) 公式ホームページ

2017.10.24

衆議院解散総選挙について

先日の衆議院解散総選挙、無所属の私は自由民主党の支援をいたしました。

2016年3月27日以来今日までの約1年半は無所属であり、その間参議院議員選挙、横浜市長選挙とありましたが、それらの選挙はいずれの政党、候補者からも支援依頼がなく、私からも特定の政党、候補者の支援はせず、無所属中立の立場で選挙戦、有権者の皆様の動向を見守っていました。

この衆議院解散総選挙も、いずれの政党、候補者からも支援依頼がないと考えていましたが、選挙の公示直前に責任政党である自由民主党から、手伝いに戻ってくるよう、責任ある政治を目指すよう、お声をかけていただきました。

1年半後の自分自身の選挙までにどこかの政党に属すようにとのお声を多くいただく中、自由民主党からの支援依頼は正直驚きを感じました。

21歳の時に地方自治を学びたいと思い、地元の横浜市会議員の下で勉強し、私が政治の世界に入った最初の政党が自由民主党です。

その後、様々な紆余曲折があり自由民主党を離れ、28歳のときに、当時のみんなの党より横浜市政を志し、29歳で横浜市会議員に初当選しました。

初当選以降、2期5年間に渡り、みんなの党、結いの党、維新の党と所属してきましたが、全て国政における政局の影響で分裂、解党。
所属する政党がなくなってしまう異常事態が続きました。

初当選の仲間は14名(11名新人・2名2期・1名3期)おりましたがバラバラとなり、その後、日本共産党と協力、協調していく者さえ出てしまう事態となりました。

衆議院解散総選挙公示前に私が所属を見送った民進党が事実上なくなり、過去、同じ政党で一緒に活動をしていた前衆議院議員が希望の党からの立候補の意向を示していました。しかしながら、希望の党の公認が得られず、所属政党が決まらない異常事態が発生しました。

前衆議院議員がそのまま無所属で立候補する場合は、思想信条、政策も近いものがありましたので支援する心づもりもありましたが、公示日になっても声がかからず、最終的に日本共産党と連携するリベラル、左翼寄りの政党から立候補する事態になってしまいました。
何があったかは計り知れませんが、思想信条、方向性が私とは180度変わってしまったと判断し、仮に支援依頼があっても丁重にお断りすることを決めました。
結局、公示日まで支援依頼はありませんでした。

新人の保守系候補の陣営からも支援依頼はありませんでした。

一般の有権者のみなさんは選挙の際、政党や組織であったり、政策であったり、人で選んでいただくことで一票を行使すると考えますが、我々政治家や政治関係に携わる者は、政党や組織、政策に加えて、思想信条や政治姿勢など、政治家としての根幹で選ばなければなりません。

それが仮に、自分自身の進退に影響する可能性があったとしても、政治家として譲ってはならない大切な部分であり、判断となります。

確かに当選しなければ、何も出来ないのは政治家の基本です。
しかしながら、当選しても出来ることが限定的になってしまうことや、何も成果を挙げられないこともあります。
ですが、私は政治家としての根幹は曲げずに、今までの自分自身のベースとなっている保守の理念を守って参ります。
それが、2度の当選をいただいたみんなの党、維新の党の政治理念のベースとなります。
但し、保守、リベラルの枠組みを超えることが必要になってくる時代が今後必ずやって来ると考えています。
今後、自由民主党に入党するか否かは現時点で自分自身の判断は至っておりませんし、先方の都合もあるため、まだわかりません。

私は改めてスタートをする訳ですが、スタートラインはゼロからのスタートではなく、今まで築いてきたものを顧みないマイナスからのスタートだと考えています。
まさに、不退転の決意で自由民主党を支援する決断をしました。

今回の私の判断により多くの方々に動揺を与えてしまったことにはお詫びを申し上げます。
しかしながら、私の今日の判断が、必ずや将来皆さまのお役に立てることをお約束いたします。
この行動について、賛否両論があることも承知しておりますし、すぐにはご理解いただけないこともわかった上での結論です。
10年、20年経った時に、あの時の判断は正しかったね、と言っていただけるよう、これからも日々努力して参ります。

追伸
私がみんなの党から横浜市政を志すきっかけになった方が、みんなの党、無所属を経て自由民主党で参議院議員を務めています。
この度の選挙戦で数年振りにご一緒させていただきましたが、賛否両論はありますが、年数、当選回数を重ね、より高度な政治活動を継続されています。